グレアム・ヤングに憧れて

ニュースを見ると、必ずといっていいほどに、件の毒物事件が報道される。
母親に毒を盛り、その観察日誌をウェブで公開していたという、あれだ。

で、少女の日記がナレーターに読み上げられるわけだが。
あれ、ものすごく気持ち悪いと思ってんのは俺だけだろうか。



なんというか、あんなイタイ文章を聞きたくないというか。
制作サイドはきっと「不気味な少女像」を作り上げたくて必死なんだろうけれど、きっと実際の少女というのは、きっとどこにでも一人ぐらいはいるやつなのだろう。
ただ、ものすごく痛々しいだけ。

彼女の日記の文体は、ハッキリ言ってヲタク漫画と同系列なのだ。
というか、「僕」という一人称を使う女性はその気があると思って間違いないような気がする。

彼女は「絶望の世界」の読者だったらしい。
「絶望の世界」というウェブ日記を知っている人は、最近は少ない。
一頃はとんでもなく有名なサイトだった。
西鉄バスジャック犯、通称「ネオ麦茶」が読んでいたということで大きく取り上げられたサイトだ。
サイトそのものは消滅したが、ウェブアーカイブを参照することができる。
(日記に関しては、文字を反転しないと読めない仕組み)
内容は、まぁ自閉的で陰鬱な日記だ。
リアルなのか創作なのかはわからんが、世の根暗人にインパクトを与えたことは確かだろう。

また、彼女はグレアム・ヤングに影響されていたことも告白している。
ニュースでこれもしつこいぐらいに繰り返されているが、グレアム・ヤングとは毒物使用による、所謂シリアルキラーだ。
連続殺人だとか、精神異常だとか、犯罪心理だとか、そういったキーワードに興味のある人々にとっては、結構有名な人物である。

で、こういうことを知って気付いたのは、趣向そのものはよくいる人物である、と。
例えば俺にしたってそうだ。
いや、もちろん母親を毒殺しようだなんて間違っても思わないけれど。

しかし、例えばどうだろうか。

人を殺すことを想像したことはないだろうか?

正直に言えば、俺はある。
それもわりと頻繁に。
想像の中で殺す対象にたいして、俺は悪意を持っているとは必ずしも限らない。

以前の日記にも書いた。
舞城王太郎という作家が書いている。

人殺しの小説を書いてる人間は人殺しに単純な興味があって、ということは人殺しに面白みを感じるのであって、面白みを感じている以上、何らかの条件下なら人殺しをやってみたいなあと思ってるんじゃないだろうか?

そして、このことはきっと読み手にも換言できるはずだ。
俺たちは映画や小説や漫画のなかで、他人の死を疑似体験し、それにある種のエンタテイメント性を見いだしている。
そして更に付け加えれば、俺たちはそういった創作ではない他人の死、つまり現実に起こった他人の死すらも、さまざまなメディアをフィルターとすることで疑似体験し、それをエンタテイメントとして受け入れているという可能性すら否定できない。
少なくとも、俺は、である。

それは道徳的な次元とは違った意味においてだ。
人がサスペンス映画やホラー映画に興奮するのはどうしてだろうか。

例えば「ハンニバル」という映画がある。
アンソニー・ホプキンス演じるレクター博士は人智を超越した能力で、あらゆる人間を殺し、時にはその屍肉を食う。
こんな映画にドキドキしてしまうのはどうしてだろうか。
考えるまでもなく、俺は「死」そのものに深い興味を持っている。
その「死」が自分のものであろうと、他人のものであろうと、だ。

彼女は「疑似体験」というフィルターを切除してしまった。
実体験しようと試みてしまったわけだ。
なら、そのフィルターを切り落とす人と切らないでいる人との差異はなんだろうか。

けれど、その問い自体が不毛なものであるかもしれない。
実際は、そんなフィルターなんていつのまにかみんな切り落としているとしたら? である。

殺人は可能か? と考えればもちろん可能だ。
何も、この事件のように薬局で嘘ついてタリウムを買ってくる必要は無い。
例えば包丁だろうと、金槌だろうと、鋏だろうと物理的な行為としては可能だ。
だけど、もちろん世の中の殆どの人間は実践には至らない。
「ぶっ殺す」と口にはしても、そのうちの99%以上は有言無実行である。
それはもちろん、社会的なルールがあるからだ。
殺人なんてタブー中のタブーだということはみんな知っている。
聖書にだって「汝、殺すなかれ」と明示されている。

しかし、その社会的なルールこそが人間にとっても最大の暴力的装置だ。
人に殺されたくないという理由で、作った装置が人を殺す。
戦争、死刑、国家機関、そういった類のものは、まさにそれだと言えないだろうか。
社会を順当に構成するために構成した、支配・管理という機構に少なくとも俺はすがっている。

「明日から警察機構は活動停止です」
だなんてことがあり得たら、きっと俺は怖くて仕方がない。
つまり、俺は他人をどこかで信じられないから機構にすがり、機構に庇護され、それでいてその機構に殺される、または罰せられる可能性を生きながらえさせていると言えるのかもしれない。
俺はこの社会で生きている時点で、無自覚にフィルターを切り落としていたわけだ。
差異は自分の手を汚すかどうか、だ。
総ての人がそうであるだなんて、おこがましくてとても言えないけれど「あんなやつ死ねばいいのに」とときどきにせよ思ってしまう自分は、機構によって人が殺されることを容認している。
そして、この機構が無い生活をなぜか容認できない。

俺がいま読んでいる小説でも、人がどんどん死んでいる。
そして、その小説はかなり面白い。
で、俺が毒物少女をどれだけ否定できるかどうかなんて判らないという朝6時半の更新。

キリストも言っていただろう。
「このなかで罪の無い者だけが、彼女に石を投げなさい」
結局、誰も投げられなかったのだ。


(しかし、今日の日記は長い。変な時間に更新するとよくこういうことになってしまうが良くないんだろうか。しかも、今日の日記の内容は、軽く「俺、ちょっと精神的にヤバイっす」と言っているようなもんだな)
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by sargent_d | 2005-11-05 06:37
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